水の東西  山崎正和

内容理解と方法知の往還

Ⅰ 冒頭をしっかりと読ませなければならない。

  

  《内容理解のコア①》

  「鹿おどし」→流れる水をせき止め刻む 仕掛け

   

  《筆者の定義づけに着目し読み取る》

  「鹿おどし」を筆者はどのような存在として位置づけているのか

 

 多くの授業では、後半の対比には目がいくのだけれども、この冒頭部分の読みが浅いために理解の深まりが生み出せないケースを多く見る。「鹿おどし」は、噴水の対比物としてだけではなく、そのものがいかなるものとして存在しているのかという点がとても重要な理解のポイントになる。もう少し肉付けするならば、

 

  《内容理解のコア②》

    流れる水をせき止め刻む

        ↓

    かえって 流れてやまないものの存在を強調

        ↓

    我々に流れるものを感じさせる(水の流れ・時の流れ)

  《関係性の理解》

   表現を丁寧に照応させる

 

  ここでは鹿おどしを受け止める人の側がどういうふうに感じているのかという点を指摘している部分だから、先ほどの位置づけとは書かれている内容が異なっているが、「鹿おどし」の特徴や動き(仕掛け)がもたらす受け止めについて指摘している。

 流れをせき止めていることがかえって流れを感じさせるという点、感じる流れとは何の流れなのかという点を突っ込んで理解させておきたい。

 

Ⅱ 「鹿おどし」in ニューヨーク

 

 《エピソードを読み解かせる》

  挿入されているエピソードに気がついたら、筆者はなぜここでこの話をしているの   

  かを考える。

 

 《理解のコア③》

  ①環境や空間との関係性が受け止める側の条件として重要である点を指摘

  ②「西洋の噴水」を対の具体例として導くため

 

Ⅲ 対比構造の読み解き

  三つの対比を読み解くためには、それぞれがどういう観点で対比されているのかを  

  捉えさせなければならない。基本的なレベルの学習構築なので省略。

 

Ⅳ 抽象的な概念の読み解き

 

  抽象的な概念として

 

   「行雲流水」と「水を鑑賞する行為の極致」

 

 は読み解かなければならない。同じく基本的な学習なので省略。

 

深まりを生み出すために

 

 教材の記述から「見えない水」→「流れ・音」への着目が為されている点を気づかせられる。山崎は、『混沌からの表現』の中で花火の例を挙げ、「序・破・急」のリズムにドラマや変化を見出している。筑摩のHPにあげられている授業解説では、無常観と近代に発展させる案が掲載されている。それも非常に勉強になるので読んでみて欲しい。

 しかし私は、確かに無常なるものへの視線を感じつつも違った深まりを持たせる授業を構成してきた。

 

 鹿おどしは「緊張が高まりそれが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる」と指摘されているように、筆者は、なぜ「水を鑑賞する行為」として「鹿おどし」を選んでいるのかとうと、この仕掛けとしての動き、営みに惹きつけられているからである。

 

 この鹿おどしの動きはたしかに本文にあるように「流れをせき止め刻む」ものなのであるが、もう一つ循環、つまり流れをせき止めて、一杯になると一気に音を立てて流れる、そしてまた一から流れがたまっていく、これを何度も繰り返し循環する仕掛けとなっている。

 

 これは視座の問題で、この文章には顕在的には西洋と日本(東洋では無いと思うが題名が水の東西ということもあり)の対比構造があるのだけれども、潜在的には自然と人間という対比構造がある、悠久で永遠である自然に対して、人間は変化する無常なる存在である。自然の一部である水をせき止め循環させる仕掛けとしての鹿おどしの中に、人も生き死にはあるけれども、循環する存在として、また繰り返しめぐっている自然の一部であるという認識に至ることができる。